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仙台ではじめての「基地引き取りの会」

仙台ではじめての「基地引き取りの会」
参加者40人と「野村浩也/無意識の植民地主義/平等講演原稿」を読み、郭基煥先生に解説して頂きました。(Hitomi Urushiyama)

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Hitomi Urushiyama 郭 基煥 さんのお話。(13分)


野村さんは、逆説、矛盾に気づいた。
優しい日本人、平和主義を平等主義を憲法で唱えていながら不平等を押し付けている。
日本は平和主義な国である。見せかけだけになっている。
アメリカは民主主義、自由主義の国であると言っている。だけど実際にはそうでなくて、ただ宣伝のために言っている。
日本の平和主義もそれと同じようなものではないか、

犠牲、
沖縄に基地をおくということは、犠牲を強いているということ、
犠牲のシステム
日本という国は、あちこちに犠牲のシステムが働いている。
原発の問題、その場所に押し付ける。
家庭の中でも女性の人たちが、家事負担とかいろんな仕事をやらされている。
犠牲の仕組みがなぜ、ここまで続いてしまうのか、
良識があれば犠牲を強いてはいけないだろうと誰もが一般的に言う。
しかし、それを押し付けて行く、なぜか、犠牲を見えなくしてしまう
左翼の殉国美談、犠牲をロマンス化してしまう。
女性が犠牲を強られていること→良妻賢母であると美談化する。
戦争において特攻隊の美談化。
沖縄のロマンス化。誉め殺し。
沖縄には綺麗な海があって、優しい人たち、おばあちゃんたち
美しいものを大量に見せて、こういう話をいっぱいすることによって、犠牲はないようにして行く、犠牲に気づかないようにしてゆく、
犠牲のシステムを見えないようにしてゆく。
沖縄の基地集中ということを知らない。
圧倒的な無関心な壁が見えなくしている。
原因を、、化してしまう。
沖縄に基地があるのは、沖縄に置くべき理由があるから、戦略的な理由があるから
だから、仕方がないんだという論理にしてしまう。
受け入れるしかないんだと犠牲を押し付けてしまう。

今日は、学生さんが一人来ている、しかもその学生は留学生、
大丈夫か、日本人は(笑)
たとえばこういう話をすると、
「日本人というのは、社会に問題になかなか関心を持たないんだ、だから、仕方がないんだ」という
あなたは、、、と思って喋っているの、あなたは日本人なんでしょ、と言いたくなる。
このように、日本人から切り離して考えてしまう、遠いところから、日本人はこうだからこういうことになってしまう、と自分を別の場所に置いてしまう、
だから、野村先生は、アイデンティティは変わらないという言い方をしている。日本人であることは変えられないわけですから、その責任をちゃんと取れと言っている。ポジショナリティ、ポジショナリティと言っているのは、ただし、犠牲を強いる側と強いられる側の立場性は変えられると、
問題は、そのアイデンティティを放棄してしまう。脱アイデンティティ化してしまう。
自分とは関係ない。

植民地主義
美化して、相手にものを言わせない、我慢できなくなって言い出すと、
声をあげると、逆ギレする、悪魔化する。
植民地主義はこういうやり方をしている。
植民地主義というのは、植民地化して何かの利益を得ようとする、
相手にためになることをします、いいことをします。
客観的に見れば犠牲を強いることを、あたかも素晴らしいことをのように
劣った民族であるから、国を持つ力がないんだ、
だから日本がその国に行って支配することはいいことなんだ、
沈黙を強制する。ものを言わせない。
徴用工、慰安婦の問題。
堪えていたものが吹き出してくると、悪魔化する。
持ち上げておいて、突き落とす。こういうやり方をする。
沖縄に犠牲を敷いてないで、即刻、引き取るという方向に。
犠牲を強いて世の中を機能させてゆくという形と決別する。

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